Lesson 5-5 忘却と睡眠

「 忘れてしまう」=「忘れられる」

物事の長所と短所は表裏一体です。大切な記憶を「忘れてしまう」のは、もちろん悲しいことではありますが、「忘れられる」と捉えてみると、それは記憶のもうひとつの素晴らしさであると言えます。

生きていく上では、いつまでも覚えていたいような、楽しいことばかりが起こるものではありません。どんな人間でも、嫌なことや悲しいことは一刻も早く忘れてしまいたいものです。そしてここでも、記憶と睡眠は大きく関係しています。

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寝逃げしたいとき

15年ほど前、厚生労働省が全国の成人2万5000人を対象としてストレスに関する調査を行ないました。その結果を見ると、ストレスを感じたときの対処行動として「寝てしまう」ことを選んだ人は、全体の20パーセントを占めています。近年では、「寝逃げ」という言葉も、一般的と言ってよいほど認知されてきました。

確かに、ストレスを感じたりネガティブな感情に捕われてしまったとき、ぐっすり眠って忘れてしまおうと考えた経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。しかし実際にベッドに入ると、ストレスを感じているだけ、普段より一層目が冴えてしまうこともあります。

しかしこれには理由があります。ストレスは危険信号の一種でもあるため、生物として、危険が迫っているときに眠ってしまうことは避けようとする本能があります。野生動物の場合を想像してみるとわかりやすいでしょう。天候の急激な変化や、捕食者が接近する気配などを感じた場合、すぐに目を覚まして、危険を回避する行動をしなければ、生き延びることは出来ません。当然、それは我々ヒトの祖先もおなじだったはずです。

このように考えると、眠れないことにも必ずなんらかの意味があり、ストレス由来の不眠だからといって、一概に改善すればよいとも言えないのではないか?という考え方も成り立ちます。

眠らないほうがいい?

また、嫌だったことや悲しかったこと、怖かったことなど、ストレスは感情にまつわる記憶、すなわち情動記憶と言い換えることが出来ます。いままで見てきたように、非宣言的記憶である手続き記憶は、睡眠によって強化されます。それならば、睡眠をとらないことによって、やはり同じ非宣言的記憶である情動記憶を、忘れることが出来るのではないか? このような仮説を立てることも可能です。

DNAの二重らせん構造を、初めて論文として発表したイギリスの科学者、フランシス・クリックは、ヒトの脳とさまざまな動物の脳を比較して、興味深い仮説を立てました。ヒトの脳がこれほどの能力を持っているのは、その機能を充分に発揮するために、不必要な記憶を捨て去ってしまっているからではないかと考えたのです。そして、記憶の取捨選択は、レム睡眠中に行なわれているという仮説を発表しました。

クリックの仮説は、その後の研究によっても、ある程度は証明されています。記憶の整理にレム睡眠が必要であることは、ラットなどを用いた実験でも確かめられています。「整理」である以上は、不必要な記憶はそこで捨てられている可能性も充分に考えられます。

事故体験の夜に

さらに近年になって、ストレスと睡眠に関する興味深い事実が発見されました。東京、国立精神・神経医療研究センターの栗山健一博士らによる研究チームは、学生たちに参加してもらって、あるビデオを観てもらう実験を行ないました。

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ビデオは、車を運転中のドライバーの視点から撮影された交通事故の映像で、いわば事故をバーチャル体験してもらうというものです。ビデオを観た学生たちは二つのグループに分けられ、一方のグループには充分な睡眠をとってもらい、もう一方のグループには一晩徹夜すること頼みました。その後、10日間のあいだに、研究チームは映像から抜き出した事故の写真を被験者の学生たちに見せて、反応を観察しました。すると、写真を見たときに蘇る恐怖感や、発汗などの生理的なストレス反応が起こる割合は、ビデオを観た夜に睡眠をとらなかったグループのほうが、大幅に少ないことがわかりました。

睡眠が持つ、記憶を定着させる働きが、不快な記憶を植え付ける方向にも働いてしまう可能性があることが明らかになったのです。つまり、怖さや悲しさなど、強いストレスをともなう体験をした際に起こる不眠には、危機を回避しようという本能的な役割だけでなく、不快な記憶が定着してしまうのを防ごうとする役割があると考えられるのです。

トラウマが焼き付いてしまう前に

栗山博士の研究チームが導き出した研究結果は、とても興味深いもので、注目を集めています。自然災害や事故、肉親の死など、強いショックを体験したために発症してしまうPTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)など、精神疾患の治療への応用も期待されています。普段の生活でも、なにか嫌なことがあったときは、寝てしまおうとしないで、あえて眠らずに好きな音楽を聴いたり、テレビを見て過ごすことで、不快な記憶が定着するのを防ぐことにつながります。眠らないほうが気持ちの良い朝を迎えられる場合もある、ということです。

Lesson 5-5 まとめ

  • 睡眠が持つ記憶を定着させる働きは、不快な記憶を植え付ける方向にも働いてしまう可能性がある。
  • 強いストレスをともなう体験をした際に起こる不眠には、不快な記憶が定着してしまうのを防ごうとする役割がある。
  • 嫌なことがあったときは、あえて眠らずに過ごすことで、不快な記憶が定着するのを防ぐことにつながる。