Lesson 4-7 睡眠負債とアデノシン

誰がスイッチを押すのか

モノアミン作動性ニューロン、コリン作動性ニューロンなど、覚醒を作り出すニューロンは、大脳皮質の発火が減少し同期していくのを抑えることで、覚醒状態を作り出し、維持していることがわかっています。そのいっぽうで、GABA作動性ニューロン(睡眠ニューロン)が活動を始めるきっかけ、覚醒状態から睡眠状態へ移行していくきっかけは、まだ明らかになっていません。とはいえ、いくつかの仮説は提唱されており、そのなかでも最も説得力があり妥当性が高いと考えられているのが、睡眠負債を用いた考え方です。

どんなときに眠くなる?

脳内の現象から離れて、日常の生活を振り返ってみましょう。人はどんなときに眠くなるのか。当然ですが、起きている時間が長く続いていると、眠気を覚えるようになります。よく運動したり頭を使ったりした日の夜に、強い眠気に襲われ、ぐっすり眠ることができた、というような経験も、誰しも覚えがあるはずです。また、たとえ睡眠が取れていても短時間だったり、質が悪かったりすると、やはり起きているあいだも眠気が続き、集中力が落ちてしまいます。

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このように、眠気が現れるタイミングや、眠気の強さ、睡眠の深さは、起きているあいだの活動や疲労の度合い、起きている時間に関係していることがわかります。このような現象を説明するのが、睡眠負債という言葉です。

睡眠負債が貯まっていく…

「負債」という言葉からも、なんとなく言葉の意味を想像することが出来るかと思います。生物が起きて活発に活動しているあいだ、疲労は少しずつ貯まっていきますが、これを、睡眠を取らないだけ負債が増えていくと捉える考え方です。激しい運動をしたり、徹夜仕事を続けたりしていると、睡眠負債がたくさん貯まっていき、そのぶん深く質のよい眠りで清算しなければならない、というわけです。

また、Lesson 1-3Lesson 1-4で学んだように、地球上の動物や植物は、ほぼすべてが体内時計を持っており、概日リズム(サーカディアン・リズム)を刻んでいます。おさらいすると、視交叉上核が松果腺に、睡眠を促すメラトニンの分泌を促し、メラトニンの分泌によって、脳は眠気や疲労感を覚える、というものでした。基本的な日常生活(朝起きて日中に活動し夜になると眠るというパターン)は、おおよそ、この体内時計が刻むリズムに則っています。しかし実際には、体内時計はある程度の融通が利くものなので、徹夜をしたり、短時間の仮眠をとるだけで長時間働いたり、といったことも出来ます。

このような融通を重ねることで広がった実際の生活リズムと概日リズムとのズレの大きさや、睡眠負債の大きさなどが絡まって、睡眠状態へ移行するスイッチが押されると考えられています。

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スイッチはアデノシンが押す?

考え方としての睡眠負債は有効だとしても、実際に睡眠負債がどのようなメカニズムを持っているのかは、まだまだ議論の尽きない点です。しかし近年、アデノシンという物質が睡眠物質として注目されるようになってきました。

睡眠負債がなんらかの物質の形を取っているという説は古くからあり、多くの実験が行なわれてきました。20世紀初頭からの100年あまりのあいだに、睡眠物質の候補と目される睡眠誘発物質は30種類以上も発見されています。そのなかで、睡眠物質として最も有力な候補なのがアデノシンです。

多くの種類の神経伝達物質は、ATP(アデノシン三リン酸)という物質を伴って分泌されます。このATPが分解されて出来たものがアデノシンです。アデノシンは、睡眠中より覚醒中に脳内の濃度が高く、覚醒時間が長いほど濃度は高くなっていきます。そして、睡眠中に少しずつ減少していきます。つまり、睡眠負債そのもののような働きを示すのです。

アデノシンは、視索前野の腹外側視索前野(VLPO)と呼ばれる部分にあるGABA作動性ニューロンを刺激します。このことによって、覚醒を作り出すモノアミン作動性/コリン作動性ニューロンの活動を抑制され、睡眠状態へ移行すると考えられています。

まだまだわからないことも多い睡眠負債

とはいえ、マウスを用いた実験では、アデノシンを欠損させた状態にも関わらず睡眠状態が作り出されたという結果も報告されており、睡眠状態を引き起こすのは、アデノシンや体内時計だけではないということもまた確かなようです。睡眠負債は物質の形を取らないとする説も根強く、研究が続けられています。睡眠のスイッチを押しているのは誰なのか、睡魔の本当の正体は誰なのか、明らかになる日は来るのでしょうか?

Lesson 4-7 まとめ

  • 睡眠負債…生物が起きて活動しているあいだ、睡眠を取らないだけ負債が増えていくと捉える考え方。
  • 概日リズム(サーカディアン・リズム)…地球上の生物、植物のほぼすべてが持つ。体内時計によって刻まれる。
  • 実際の生活リズムと概日リズムとのズレや、睡眠負債の大きさなどによって睡眠状態へ移行するスイッチが押される。
  • アデノシン…有力な睡眠物質の候補と考えられている。覚醒時間が長いほど脳内のアデノシン濃度は高くなっていき、睡眠中に少しずつ減少していく。GABA作動性ニューロンを刺激することで、睡眠状態を作り出す。