すばらしい教育法
イギリスの作家、オルダス・ハクスリーが1932年に発表した『すばらしい新世界(原題:Brave New World)』は、26世紀の世界を描いたSF作品で、ジョージ・オーウェルの『1984年』と並ぶディストピア小説の先駆的傑作です。
この小説には、「睡眠教育法」というガジェットが登場します。どういうものかと言うと、人々が眠っているあいだに、同じ言葉を何度も何度も繰り返し聞かせることで、本人が知らないうちに、その人の倫理観や価値観などを国家の望むがままに教え込まれてしまうという、少々恐ろしい教育法です。
寝ながら聴くだけでは英語は覚えられません
もちろん、このような教育方法は実用化されていませんし、たとえ実用化されたとしても使用することは許されないでしょう。しかし、この睡眠教育法と同じような理屈で説明される学習法や商品の類いは、皆さんも耳にしたことがあるかもしれません。「寝ながら聴くだけで英語が上達する」等と謳った商品広告を、インターネット上で見かけたことがある方も、中にはいらっしゃるのではないでしょうか。
「寝ながら聴くだけ」では学習効果が期待できないことは、すでに科学的に証明されていますので、上のような広告はほぼ100パーセント根拠のないものです。これまで睡眠中の脳内の様子について学習してきた皆さんであれば、睡眠中は五感を通した外界からの情報入力がほとんど遮断されていることもお分かりのはずです。そのような状態で、新たな情報を学習することは不可能なのです。
しかし、睡眠と学習の関係についての研究は、実際に数多くの科学者が行なってきました。
わたしの爪は苦い
アメリカの心理学者ローレンス・ルシャン教授は、まさにオクスリーが書いた睡眠教育法と同じように、人が睡眠中に学習することが出来るかどうかを確かめるため、とても興味深い実験を行ないました。
ルシャン教授は、子ども用のサマーキャンプに、爪を噛むクセを抱えて困っている子どもたちを集めました。彼はその子どもたちを二つのグループに分け、別々のログハウスで一夏を過ごすように指示しました。片方のログハウスで過ごすグループが寝入っても教授は何もしませんが、もういっぽうのグループが眠りに入ると、教授はログハウスに忍び込み、「わたしの爪は苦い」と300回繰り返し、静かにドアを閉めてログハウスを後にします。実験を開始した当初はテープレコーダーを使用していたにも関わらず、ある晩、悲しいことにテープレコーダーが故障してしまったため、それからは毎晩、教授自身が忍び込んで同じ言葉を何遍も繰り返しました。
教授が「わたしの爪は苦い」と口にした回数は1万6000回以上にのぼります。サマーキャンプの終わり、看護士たちに少年たちの爪の状態を調べさせた結果、睡眠学習をした少年たちのうち、40パーセントの少年たちから爪を噛むクセが消えていたことが分かりました。
その後、同じような実験が、カリフォルニア州のトゥーレアリ郡刑務所を舞台に行なわれました。トゥーレアリの囚人たちの枕許で繰り返された言葉は、「アルコールに頼らずに暮らしなさい」「あなたの心と魂を鍛えなさい」といったものです。ここでも睡眠学習を受けた囚人たちのうち、50パーセントに効果が見られたという発表がなされました。
夜毎の英会話教室
ルシャン教授やトゥーレアリ郡刑務所での実験が行なわれたのは、1940年代〜50年代後半にかけて、冷戦下での米ソ対立が緊迫の一途を辿っていった時期でもあります。宇宙開発だけでなく睡眠学習研究までもアメリカに先を越されてはならぬと、ソ連でも研究が進められていきます。
1960年代の初頭に、社会主義国ならではの大規模な実験が、モスクワ州のドゥブナという町で行なわれました。ドゥブナの人口は約2万人、原子力研究センターがあり、現在ではロシア政府から科学都市に指定されています。
ドゥブナの住民たちは、夜の十時半にベッドに入ること、その際にラジオをつけること、地元の放送局にチューニングを合わせたまま眠ることを指示されました。十時四十分になると、ラジオからは眠気を催すような音楽が流れ、午後十一時五分と午前六時半には、英会話レッスンの番組が放送されます。実験は二ヶ月に渡って毎日続けられました。すべての実験終了後、ウクライナ科学アカデミーの実験担当者は、ドゥブナの住民たちは睡眠学習の結果、英単語を1000覚え、簡単な日常会話が出来る程度の英語能力を習得した、と発表しました。
エモンズとサイモンがとどめを刺す
しかし、これらの実験結果に対して、当然ながら懐疑的な見方をする科学者も多く、反証実験も行なわれてきました。もっとも有名なのが、アメリカ、ランド研究所のウィリアム・エモンズとチャールズ・サイモンの二人による実験です。
エモンズとサイモンは、これまでに行なわれた実験よりも厳密な条件下で実験をするために、実験室に集まった被験者全員に脳波計を装着してもらい、注意深くその脳波を観察しました。被験者が確実に深い睡眠状態にあるときに、耳許で十個の単語を記録したテープを繰り返し流しました。しかし、被験者の誰一人として、眠っているあいだに聞かされた単語を記憶している者はいませんでした。
それでも睡眠と学習は切り離せない
エモンズとサイモンの実験は、他の科学者たちも刺激し、同様の実験が数多く行なわれました。その結果、睡眠学習に効果は期待できないということで、科学の世界の意見は一致しました。
現在もこの見解は覆されていません。しかし近年の研究によって、睡眠は学習そのものではなく、「覚醒時に学習した記憶の強化」に深く関わっていることが明らかになってきました。Lesson 5では、睡眠と記憶の関係について学んでいきましょう。
Lesson 5-1 まとめ
- 睡眠学習に効果は期待できない。
- 睡眠は学習そのものではなく「覚醒時に学習した記憶の強化」に深く関わっている。