Lesson 1-2 眠らないDJ

ヒトの限界

前回は、睡眠が生き物にとって必要不可欠であることを確かめるために、少々残酷なふたつの動物実験について見てきました。今回は動物ではなく、不眠記録に挑んだ”ヒト”のお話です。

不眠記録に挑んだ人物の中で、もっとも知られているのが、アメリカで1950年代に活躍したラジオDJ、ピーター・トリップです。

1926年生まれの彼は、ミズーリ州西部のカンザスシティでDJを始め、独特の語り口や選曲で人気を集めます。そして1955年、ニューヨークへ移り、その人気を全国区のものとします。彼の人生で最も大きな挑戦は、その4年後に行なわれることになります。

トリップのトリップ

1959年、彼は小児麻痺救済のチャリティ番組での話題作りのため、8日間眠らずに生放送し続けることを思いつきました。もし成功すれば、当時の最長不眠記録を更新することになるはずでした。トリップとスタッフは、ガラス張りの特設スタジオをマジソンスクエアガーデンに設置し、放送を開始しました。

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トリップの試みは、話題作りとしてはこれ以上ない成果を収めました。彼の放送は全米だけでなく、世界中から注目され、報道されました。特設スタジオにはたくさんの野次馬が押し掛け、睡魔と戦いながらマイクに向かうDJを眺めていました。もちろん、健康面への配慮が行なわれなかったわけではありません。放送を続ける彼の傍では、不測の事態に備えて、軍の医療チームが彼の様子を常に見守っていました。

しかし、トリップは少しずつ変調をきたしていきます。まず、目を開けていることがつらくなり、断眠をはじめて3日目ぐらいから、妄想や幻覚に悩まされるようになりました。「スタジオの中をネズミが走り回っている」「靴の中にびっしり蜘蛛が入り込んでいる」「スタジオに火が点いた」などと口走り、診察を試みた医師を、自分を埋葬するためにやって来た葬儀屋だと思い込み、スタジオから飛び出してしまいました。やがて彼は、ピーター・トリップは自分のことではなく、自分が演じている男の名前だと信じ込んでしまいました。麻薬によるバッドトリップや精神疾患と非常によく似た状態に追いつめられてしまったのです。実際に最後の3日間、傍らの医師たちはトリップを眠らせないために薬を投与し続けました。

201時間

それでもトリップは、8日間(192時間)と数時間、合計201時間ものあいだ、放送を続けました。放送終了後、彼は丸一日眠り続け、正常な状態に回復しました。しかしその後、徐々に精神的な変調が目立つようになり、金融トラブルを巻き起こしたり、離婚と結婚を繰り返すようになってしまいました。

264時間

トリップの実験から5年後の1964年、もう一人のアメリカ人男性が最長不眠記録に挑みました。当時17歳の高校生、ランディ・ガードナーが今度の挑戦者です。

ガードナーの実験も、トリップの場合と同じように、アメリカ海軍の神経精神医学研究ユニットの医師が立ち会いました。健康面への配慮だけではなく、不眠状態における人間の心理や行動を記録する目的もありました。

ガードナーもやはりトリップと同じような症状に悩まされました。白人である彼は自分を有名な黒人アメフト選手だと信じ込み、友人達がそれを否定すると、彼らを差別主義者として罵倒しました。

結局彼は11日間(264時間)、不眠を続け、世界最長不眠記録を打ち立てました。実験が終わり、睡魔や幻覚と戦う必要がなくなった彼の顔からは、いっさいの表情が消え、心音には雑音が混じっていました。しかし彼は15時間眠ると正常な状態に戻り、トリップのように後遺症と思われる症状に悩まされることもなかったといいます。

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266時間

トリップやガードナーのような実験は、最近ではほとんど行なわれませんし、耳にしたことがある方も少ないでしょう。睡眠に関する研究が進んだ結果、不眠が人体に及ぼす危険性が次第に明らかになってきたからです。かつてはギネスブックに掲載されていた「最長不眠記録」の項目も、現在は掲載されていません。

実はつい最近、ガードナーの記録が塗り替えられました。2007年、イギリスの不眠研究者トニー・ライトが、自身の姿をインターネットで配信しながら、ガードナーの記録を2時間ほど上回る266時間の不眠を続けました。しかし、前述のような理由から、ギネスはこの記録を認めず、ギネスブックにも記載されていません。

睡眠は豊かな人生のために

前回の冒頭でお話しした、〈睡眠は生き物にとって必要不可欠〉という言葉を、いまさら繰り返すまでもないでしょう。

ピーター・トリップやランディ・ガードナーの実験は、人間にとっての睡眠の大切さ、眠らずにいる危険性を教えてくれます。20世紀の前半までは、睡眠を短縮することで時間を有効活用し、豊かな人生を送ろうという考え方が科学者の間にも人々の間にもありました。しかし現在、そのような考え方は少なくとも主流ではありません。前述したように、睡眠に関する研究が進み、睡眠時間を短縮するよりも、睡眠の質を高めるほうが、豊かな人生を送るために大切だということが認知されてきた結果でしょう。

睡眠の質を高めるためには、睡眠の基本的なメカニズムを理解することが肝心です。次回は、睡眠の長さについて見ていきましょう。

Lesson 1-2 まとめ

  • 不眠は、人体に大きな悪影響を及ぼす。
  • 睡眠時間を短縮するのではなく、睡眠の質を高める。